ひだまりBlog

人はなぜカフェに行くのか

「移動と階級」という新書が話題になっています。帯には『人生は移動距離で決まるのか?』とキャッチが書かれていました。若い社会学者が著者で、この人は人間の移動について社会学的に詳しく調べました。すると富のある人ほど移動している。移動する自由を持っていることがわかりました。一方、貧困層には移動の自由がなく、貧すれば鈍するで、移動しない人はますます貧困から脱することができないのです。(理由は後述)

わかりやすい例を挙げれば、アフターコロナの現在、旅行は世界的なブームでインバウンドによるオーバーツーリズムも問題になっています。海外旅行客が世界で爆発的に増えているのですが、彼らはある種の特権階級なのです。お金と自由な時間を持っているわけですから。

海外旅行の経験、パスポートの取得率、自動車免許の取得率、タクシーの利用歴の有無などを、かく年収で比較すれば、当然ながら収入の低い人ほど経験値が低いのです。当然の結果ですがね。社会学的に色々なことを調べていくと「移動」というキーワードで恵まれた人と幸せでない人の階層や分断化が見えてきました。移動できない人は低収入以外にも例えば「家族に要介護者がいる」という是非も大きく分けてしまいます。家に一人でも介護をしなければならない人がいると、その家族は要介護者中心の暮らしになってしまいます。富に溢れてなんでも人を雇うことができれば違うかもしれませんが、たいていの人は自由に移動することはできません。私も脳梗塞後遺症の母が在宅で生活している時には旅行など全く選択肢がありませんでした。考えもしなかった。

旅行、旅行というが、人は旅行することで何を得ているのだ?とか、ちょこっと旅行したところで何も得るものなどないじゃないの、なんてネガティブな意見もあるかもしれませんが、そんな人の多くは移動の自由を持たない人なのではないでしょうか。

経験はお金にも代え難い価値だと思うのですが、経験でお腹がいっぱいになるわけではないので貧困層にその魅力を訴えることは難しいこともあるかもしれません。酸っぱい葡萄の法則が働くのか。ここまで書いて「貧困」なんて言葉を使って文章を書くと何か冷たいというか、お前は何者なのだという上から目線を非難したくなる人もいらっしゃるかもしれません。この書についてアマゾンレビューには実際にその辺が不愉快だと述べる書き込みが散見されました。通常、旅行について人が語る際にはもっと夢があるものでこんなに身の蓋もないものではないからです。

私の個人的な行動として、私もコロナ禍が終わってからの3年間で海外旅行(タイばかり)をしてきました。私の場合は理由があって、海外までいかないと休暇している気分にならないのです。オンとオフが曖昧なポジションで働いている私はいつ不測の事態で呼び出しがかかるかわかりません。睡眠障害になるほど常に一定のストレス(仕事への意識)がかかっています。

それはともかく、しょっちゅう旅行もできません。その代わりというか私は喫茶店で過ごすことも好きです。家からスタバまでの移動も、大切な移動です。コーヒーを飲みながら仕事(今もそう)をするわけですが、自宅でなく、薬円台の事務所でもなく、わざわざスタバやコメダ珈琲まで移動する必要はあるのでしょうか。あるのです。うまく説明できないのですが、脳みその動き方が少し変わる気がするのです。

自宅から交通機関に乗り、あるいは飛行機に乗ったりもして、東南アジアのリゾート地まで8時間くらいかけてたどり着く。ホテルの合理的で余計な物品のない部屋に身を置くことで、私は少し禅の世界に入ったような気分になります。あるいは森田療法かもしれません。シャワーを浴びる、朝食を食べる、本を読む、といった一つ一つの行動が何か、いつもと違う日常とは異なるモードとなり、そこに気持ちをフォーカスすることすなわち禅の世界なのです。基本、一人で過ごし、旅行期間中は日本語を話さないというモードも仏教的です。

自分でも贅沢なことをしているなと思います。仏教的が贅沢につながるとは意外ですが、これはある種の特権です。富裕層がますます富み、貧困な人がそこから脱することができない理由が移動の自由のあるなしでなる理由、お分かりになりましたでしょうか。(説明になってない?)いや、これを本当に語り出すと長くなってしまいます。この辺で終わりにしますが読書というのも贅沢な行為ですよね。さてと私も「移動と貧困」を読むとするか(実はまだ読んでいない)

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